セグメンツはザックリーニ言えば、時間というナイフで形を切り出していく作業であり、それを突破口にして広がっていく世界があることを見せてきた。その作業自体に焦点を当てて愛でる場合もあるけど。愛でるってなんだよ(笑)ともかく、形は出発点であった。
作品というのはまたまたザックリーニ言えば、作る側の意図を形にしたもの。どんなジャンルでもそれは大体共通してる。無意図的意図も含め。その過程において素材に凝ってみたり、人と違ったアプローチを模索してみたり、社会的な側面を考慮したり、ある現象を独自の切り口で取り上げるみたいなものも含め、ここで作者の個性とやらを発揮しようとするわけです。セグメンツもそうです。でもセグメンツの場合は作品というよりは方法的側面が強いわけですが。
"something & something else"は形にしない。いや、形にしないことを目指すのではなく、特定の形になる前の段階のモヤモヤしたものを、そのままのモヤモヤとして差し出すこと。無意図的意図というよりは自我そのものの塊を。とはいえ、その自我は表現を、形を志向しない。それは"何か"としかいいようもないもの。あ、特定の形になる前の段階って書いたらモヤモヤは結局特定の形に絶対なるってことじゃないか。まぁ、便宜上そう書いたけど、必ずしもそこに至るわけではないモヤモヤ。
そこでできることはなんだろう。私にできること。やれること。モヤモヤって言葉を用いてますが、モヤモヤは私の中にあって、外に目に見えるようにしなくてはいけません。そりゃそうです。そこをどうするか。実際どうするのかは来てもらえたらわかります。鑑賞のポイントであります。テストに出ます。嘘です。テストには出ません。テストもありません。でもモヤモヤはモヤモヤとして取り出したいわけです。この場合は現象が先にあるわけではありません。もちろんお客さんにはわからないことです。なのでテストには出ません。でも、モヤモヤを外に出してみないことには、私にもモヤモヤがどういうものかわからないわけです。なので、モヤモヤを取り出すための蛇口というか、外に出すための具体的な器具みたいなものは必要なわけです。器具が形に見えるかもなぁ。まあそれは仕方がないですか。でも器具の主張が希薄だと回避できるかもしれないですね。もちろんモヤモヤを具体的なジャンルに落とし込むようなことはしません。そうなると、どうなるか。
場所と日付と時間を指定して入場料もいただいて行うイベントなわけです。もちろんそういう意味では、意図的ではあります。見せたいわけですから。前段落で書いたようなことを見せたいわけです。モヤモヤをみんなと見たいわけですよ。それで、何かを持って帰ってくれたらとてもハッピーなんです。とはいえ、お客さんは何を見せられるかはわからない。全く来なかったこともかつてはあった。約一時間のパフォーマンスです。見に来て欲しいなぁ……
というまとまらない、まとめてない文章。
その内容は木下のパフォーマンスに関してだけであって、坂本氏のそれとは関係ありません。