前号に引き続き「三太」の原稿を書いたんだけど(またもや〆切ギリギリ・・)、やっぱりというか何と言うか、八割をジョン・ケージの話に当ててしまった。残りは「segments」の解説めいたもの。<ナンバー・ピース>のことも書いてますので、機会があれば是非お読みください。杉本さん、角田さん、吉村君のテキストも必読です。
今日はコムポジ6があります。コムポジは、我々が江崎さんと竹内君でやってるイベント「com+position」の愛称で、江崎さんが言い出していつのまにか定着したもの。ちっちゃな女の子がボーカルで、ギターが眼鏡な感じのギターポップのバンド名みたいなので、とっても気に入ってます。ですが、その実体は、愛に満ち溢れてはいるものの人口密度のとても低い(泣)イベントです。内容はとーっても濃いんですけどね。
サイトには、いくつかテキストがあるので声に出してその日本語を読んでみてください。新しく竹内君のテキストが追加されました。私は泣きました。これを読んで泣かなかったら、私は映画評論家を辞めます!あと、私の友人のテキストも掲載するはずが、手違いでまだアップされておりません。。。 フライングで、以下に載っけもりです!!
「com+positionからの挑戦状」 by kinya
『さっぱりわけが分からない』か『いや、実に面白い』か。
江崎 將史、木下 和重、竹内 光輝による作曲作品コンサートシリーズ『com+position』を体験してみれば、感想はたぶんこの真っ二つに分かれるだろう。
演者の一人、木下君と知り合ったのは高校の時だから、かれこれ二十年来の付き合いになる。その長い歳月の中で、折に触れ彼の音楽の変遷を見つめてきた私にとっては、『com+position』における音楽スタイルが、様々な思索や試行錯誤といった道程を経てたどり着いたものであることは明白であるし、またそのことに深い感慨を覚えずにはいられない。彼とは何度も同じステージに立ち、デモテープを作り、やがて彼は即興を主体とした実験的音楽、私はポップミュージックという、一見対極の方向へ進むことになるのだが、”袂を別った(たもとをわかった)”という意識は不思議と全くない。表層的なスタイルは真逆であっても、根底に流れる音楽への愛、衝動といったものは共通しているという意識があるからかもしれない。つまり、同じ時期に同じ土に蒔かれた二つの種が、全く違った花を咲かせたわけである。目に見える部分は表面的な現象に過ぎない。サン・テグジュペリの言葉を借りれば、”本当に大切なことは、目に見えない”のである。どんな音楽をやっていても、やっていなくても、彼と私の人生の根底は常に”音楽”と”それを共有した時間”によって支えられているのだ。
12/9にギャラリーカフェchef d'oeuvre(シェ・ドゥーブル) で行われた『com+position5』における彼の作曲作品「window music」は、特に印象深いものがあった。三人の演者は一旦会場の外に出て、そこから会場の中に向かって演奏する。聴衆は会場の中に留まったまま、そこから外の演奏を”聴く”ことになる。会場の中と外は建物の壁と、分厚く大きなガラス窓で仕切られており、当然ながら音は聞こえない。聴衆は三人が演奏する様子をじっと固唾を飲んで見守るしかない。ある聴者は「音が聞こえたような気がした」といい、私は「ひょっとして音を出してるふりをしているだけではないか?」という疑念にかられる。どちらの反応が正しい間違っているではない。”聞こえた気がした”というのはつまり、前の曲で聞いた音が記憶に残っていてそうさせたのかもしれないし、実際に外からの音が聞こえたのかもしれない。視覚だけではなく、聴覚にも”残像現象”が存在するのではないかという、新たな発見がそこにはあった。そういった虚虚実実とした雰囲気の中で、緊張感のある濃密な時間が過ぎていく。道路を横切る車、通行人のいぶかしげな反応、時と共に日暮れて薄暗くなっていく外の景色、そういったものがまるで彼らの為に用意された小道具であるかのような演出効果を見せ、演奏と渾然一体となっていく。
「window music」における彼らの演奏を一言で言い表わすならば、「時間を音で区切る」行為であると言えると思うが、彼らは演者と聴衆の物理的空間を会場のガラス窓を利用して”区切る”ことによって、そこに新たなセグメントを創出させ、『com+position』のコンセプトをさらに一歩先のものへと進化させることに成功した。
演奏者が外に、聴衆が中にいるという逆転的な構図は、演奏者と聴衆の関係性、音楽における聴衆のあり方に新たな一石を投じることにもなった。演奏者と聴衆、音楽においてどちらが主体なのか?通常、音楽の演奏において聴衆は演奏者を観察するという構図になるが、この関係性の逆転によって、聴衆は「ひょっとして観察されているのは私達の方ではないのか?」という疑念にかられるのである。これはあたかも動物園の檻の中にいきなり放り込まれたような、スリリングな体験だった。音楽において聴者は必ずしも”受け身”であるとは限らない。いやむしろ、聴者こそが音楽の主体なのではないかという事を、あらためて確信せざるを得なかった。
もうひとつ面白かったのは、ガラス窓に切り取られた三人の男達の姿が、まるで美術作品のように見えることだった。多くの人が普段聞き慣れているポップミュージックやジャズ、クラシックといった音楽が”動的”だとするならば、彼らの音楽は非常に”静的”である。「window music」は、視覚的に時間を表現しているのだ。また、『com+position』がギャラリーを会場に選んでいるのも、そう考えると非常に理にかなっている。つまり、一見意味不明に見えるすべての事柄が、綿密に考えつくされた音楽的思索に裏打ちされることによって確信的な符合性をもち、巧みに構築されているのである。なんだこの計算高さは!これは彼らからの挑戦状なのだ。この挑戦状を、もっとたくさんの人に受け取ってもらいたい、そう願わずにはいられない。
さて冒頭の言葉に話を戻すと、『com+position』に対する人々の反応は真っ二つに分かれ、時に物議を醸し出すだろう。そういうスリリングでスキャンダラスな要素を、このコンサートシリーズは自ずから内包しているのである。ただ、彼らの音楽を、普段聞きなれた音楽とあまりにもかけ離れているからといって、「分からない」と即断してしまうことができるだろうか?いや、私にはできない。彼らの音楽は一見難解で前衛的・実験的に感じられるが、私にはある意味「とても単純な音楽」に感じられる。音楽というものの存在を徹底的に突き詰めて考え、「音」「沈黙」「時間」「構造」などの音楽を構成する様々な要素を、これ以上ないというまでにそぎ落とされた形で提示することで、「音楽とは何か?」という問いを、文字通り人生をかけて投げかけ続けているのが、彼らの活動なのである。”こういうのが音楽”という既成概念を一度一切取っ払って、生まれたての赤ん坊のようなまっさらな気持ちで、彼らの演奏を体験してみて欲しい。まさに、”音を素材とした美術作品を鑑賞するような気持ちで”聴いてみて欲しい。きっとそこから見えてくるものがあるはずだ。理解しようとする必要もない。ただ感じればいい。私も全てを理解してはいない。「分からないけど、面白かった」と思う人がいれば、またそれも良いと思う。そしてライブ会場を出た時、今まで聴きなれた音楽や街の雑踏、全ての音が新鮮な驚きをもって耳に飛び込んでくるのに気付くだろう。今まで当たり前だったものが、当たり前でなくなる。聴覚だけではない、視覚、嗅覚、皮膚感覚といった全ての感覚が鋭敏に研ぎ澄まされ、今までに感じたことのないような不思議な感覚に陥るだろう。我々が普段生きているこの世界が、いかにさまざまな”音”によって満ち溢れているか、その歓びに打ち震えるに違いない。なぜなら、”音”は”生命”そのものだからである。それは、彼らがステージで提示する「音」と「沈黙」を感じる濃密な時間を体験して初めて感じられる事柄である。つまり、『com+position』を体験する前と後で、聴衆の感性は明らかに変わる。それはあたかも、『com+position』というライブそのものがひとつのセグメントとなって、聴衆の長い人生の中のある時間を分節しているかのようでもある。
で、
今日の私の出し物のタイトルは、「earsight from window music」としました。前回に引き続き、<構造的聴取>を意図とする作品ですが、より視覚に重心を置いたものとなっています。最近アリストテレスを読んでるのが影響したというわけではないのですが。window musicシリーズは、セグメントを作り出す<音>の可能性を探る試みです。
早めに始まるんで、終わってからの方が実は長い?そんなこともないか。いつもダラダラお話してます。私の普段は出さない軽妙なトークを聞きたい方は、お越し下さい!そんな魅力的な宣伝文句じゃないわな。
com+position6
[出演]
江崎將史 compose, trumpet
木下和重 compose, violin
竹内光輝 compose, flute (melodica, claves)
[曲目]
・メンバーそれぞれのもの
・Manfred Werder : stuck 2004 3
2008. 3. 2. sun.
開場 15:00 開演 15:30
料金1,500円(1ドリンク付)
会場 chef d'oeuvre(シェ・ドゥーヴル)
大阪市西区阿波座1-9-12
tel. 06-6533-0770